おむすび日記

見なくていいです。

敗者であるという事実のお話

「事実」がこの世で何よりも好きだ。

私のような口下手が意見を言う時でも、事実さえ言えばあっという間にちゃんとした根拠が出来上がる。そして事実だから発言に責任を持たなくていい。

だから事実が好きだ。

昔、沢山勉強したのに大学受験に失敗したことがある。悲しかったけど、落ちた事実は変えられないし、(ちゃんと勉強頑張るのになあ。大学はもったいないことしちゃったなあ。)とか余裕ぶっこいたことを考えていた。流石に結果発表の日は泣いたけど、3日くらいしたらどうでもよくなっていた気がする。

もっと落ち込んでいたのは父だ。父は中卒なのだけれど、おそらく学歴コンプがあるみたいで、私が優秀な大学に行くという事実によって「中卒なのに子供を大学に行かせた優秀な親」ということを証明したかったようだ。その割にはあまりにも放任的だった気がするが。

第一志望に落ちたといったときは、「俺とお母さんが悪いんだ」と泣きそうな声で言っていた。そもそもの育て方がどうこう言っていた気がする。原因を特定した所で、貴方は次にどうしたいの?と思ったけど、面倒だったので「あぁ、そっか。」といって自分の部屋に入ってしまった。

1週間後位に父と2人でスーパーに行った。レジで並んでいる間、父はボソッと私にこう言った。

「でもさ、お前の志望校は募集人数が少ないから仕方なかったよな。そう考えると、○○大学(私の志望校以上に優秀な大学)に行った△△さんよりもお前は優秀だよな。」

私を励ますようで自分に言い聞かせているようだった。

「いや、あの子は優秀だよ。もちろん私の志望校は募集人数が少ないけど、その分センターで足切りは無いし、受験者数も少ない。合格に必要な偏差値も○○大学の方が上。あの子は勝者で私は敗者だよ。」と事実を述べた。

父は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。

実を言うと私は自分を敗者であることを声高らかに宣言することに抵抗は無い。紛れもない事実だからだ。勝ち負けは記号のようなものだから、一生懸命努力した上での敗北ならば何も恥ずかしがることはないと思っている。敗者ならば勝者の足をいくらでも舐めようじゃないかとも思っている。それが世間の事実だからだ。だからと言って、私が勝者だった際は敗者に足を舐めてほしいかというと、ちょっと止めてほしい。それはなんとなく恥ずかしいからだ。

そして数年が経ち、就職活動の時期となった。

私はもしかしてアッラーの生まれ変わりではないか?と疑うほどに悉く企業から祈られ、就活においても所謂敗者となっている。

けれども(なんでこんなに祈られるのかなあ。私会社員になったらめっちゃ活躍できると思うのに、企業は勿体ないなあ。)という余裕ぶっこいた思いを、相も変わらず秘め続けていた。もちろんメンタルはボロボロではあるが、選考に通らないという事実よりも、面接もこなせないんだから、もしかして私は企業で活躍できず必要とされなくなるのではという可能性に心を曇らせていた。

いつしか自分の話を父にしなくなっていた。「就職活動はいつ終わるの?」という父の質問には「それくらい自分で調べたら?でもまあ大体6月に終わるよ。」と答えた。その後「でも私は6月には終わらないと思う」と投げやりな調子で続けた。

ふと思った。私は面接で自分の事実のみを伝えていたと。企業から見たその場での事実はどうなのかと。敗者は敗者なりの美学があった。でも企業から見たら敗者は不安という事実しか残らない。私は自分の事実にこだわりすぎていて相手の事実が見えていなかった。

そう気づいた後の初めての面接では、自分の考えと相手の見たい光景を言うようにした。1つの質問に対して、私はこう思うと述べ、さらにその理由となる出来事を相手が想像できるように説明した。ようやく面接が通った。

事実は不変的なものだ。でも、人によって受け取り方が変わる。私が敗者であることも、紛れもない事実である。