おむすび日記

見なくていいです。

大変とか可哀想の捉え方

実は高校まで両親とは住んでおらず、祖父母の家で暮らしていた。

そう言うと「大変ね~」とか「可哀想~」とかよく言われるのだが、実は最近までそれが何故かよくわからなかった。

多分親と住んでない=変わった家庭環境=寂しい思いをしているという解釈なのだろうけど、私からしてみたら両親と暮らしている家庭環境の方が変わってて可哀想だと本気で思ってた。

というのも、私みたいな親と住んでいない子は、学校の先生とかにあからさまに目をかけてもらえるからだ。外面は良いが家庭内は荒んでる両親の子供なんかの方が息苦しい生活でよっぽど可哀想な気がするが、大人は気安くその子の両親のことを悪く言えないので、例えその子が大人に不満を訴えても、彼らはうやむやな対応をしてしまう(と思う)。でも私はあからさまに分かりやすい不幸なので結構親身になってくれた。

もちろん、本気で心配してくれた人もいたが、中には(私を心配することで自分を善良な人間なんだと認識したいんだろうなあ)と思うような大人もいた気がする。大抵そういう人間は子供から見てもえこひいきが激しいめんどくさい感じの人だったので、積極的に相談して積極的にえこひいきされにいった気がする。

正直に言うと、私はこの環境を最高の切り札だと考えていた。

特になんとも思っていない家庭環境について大人に話したら、なんかちやほやしてくれる。最高じゃないかと思っていた。今は流石にそんなことしなくなったが、この子供なら使えるもんは使っとけ的発想自体に疑問は抱いていない。

でも当時は同時に(なんか韻踏んでる)不安でもあった。「そこまで心配される程のことなのか?」と思ってた。

最近ようやくわかってきた。ウダウダ言いつつ自分のことを好きでいてくれること、自分の話を楽しそうに聞いてくれること、自分が悩みを相談したら親身になって解決策を考えてくれること、そういうことをしてくれる大人がいる重要性を知った。それを踏まえて考えると、確かに両親と暮らしていない私は心配されるべき子供であった。

でも、全ての親が必ずしもそれらをしてくれるとは限らない。

私だけが無条件に大変だったと思っていいのだろうか。自分の過去の捉え方を、いまだに私はよく分かっていない。